「子の幸せが親の幸せ」は是か非か

ウチの娘は成人しました。子が成人する。それはつまり、子が生きていく上で親である自分が不要になることを突きつけられることでもあります。ウチの子が生きていく上で、もう私は必要ありません。もちろん、たとえば明日私が死んだら娘は悲しむでしょうけど、だからといって娘の人生全体が不幸になるかというと、そうではないと思います。たぶん、一ヶ月か二ヶ月くらいで立ち直って強く生きていくでしょう。

娘が成人してから無気力になった

娘の成人は、私にとってはショッキングな出来事でした。時間が立てばいつかは来る当たり前の事だったのに、ショックだったんです。その時が来てしばらくたった今、初めて気づきました。それがどれだけの衝撃だったかが。

今、私はとても無気力です。何をするにもやる気が出ない。
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「子の幸せが親の幸せ」は依存だ

そこで思ったんですが、「子の幸せが親の幸せ」という考え方は依存的だということ。子が幸せに生きているのを見て、親が幸せを感じる。それは美しい姿だと思います。でも、そればかりでは親が子の人生に依存していることになります。

子が幸せに生きているのを見て、親が幸せを感じる。それはいいと思います。でも、「親の幸せには子の幸せが必ず必要」だとしたらどうでしょう。それはちょっと子にとっては迷惑じゃないでしょうか。子は子で自由に生きたいはず。親の幸せに子の幸せが必ず必要となると、子は親の目を気にしながら生きていかなきゃならないと感じるかもしれません。

つまり、親が子の幸せを願うことは、依存的な一面も含まれているということです。子が小さいうちはそれでもいいかもしれません。でも、子が成人し、就職し、自分で人生を選択できるようになったら、その選択は自由にしたいと思うはずです。親に指図されるのは当然イヤでしょうし、指図されないまでも、親の顔をうかがいながら選択するのもいい気持ちではないはずです。

私も子として迷惑した

私も、子として、親が子の幸せを思う気持ちを迷惑に感じました。母親に嫁さんとの結婚を反対された時です。私の母は古い価値観の持ち主という欠点はありましたが、私の幸せは願っていたはずです。でも、私にとっては間違いなく迷惑でした。

これは価値観の相違に大きな原因がありましたが、それだけではなく、例えばたまに実家に帰った時におみやげをムリヤリ持たされる時も迷惑を感じます。要するに「うぜーよ」ってことです。ほっといてくれ、と。おみやげ持たされて食い物とかを貰えることそのものは別に迷惑ではないはずです。しかし、それを強制されるのは迷惑です。うざいと感じます。

要するに子離れが必要

要するに、子が大きくなったら親は子離れしなければならないということです。言葉にするとなんというかありきたりですね。とてつもなくありきたりな、どうということはない、どこにでも転がっている話です。

もちろん私はその点は前から認識し、よ~くよ~く理解していたつもりでした。自分の幸せを子に依存してはならない。それを強く思っていたつもりでした。でも、実際に目の前に来て、今、大きく戸惑っています。

娘にはその戸惑いは伝えていないつもりです。ただただ、自由に生きろという態度で接しているつもりです。たぶん大丈夫だと思う。その点では私は合格点でしょう。しかし、私の内面はグチャグチャです。これから私は何をアイデンティティにして生きていくべきなのか。それを突きつけられ、選択できずに戸惑っています。

こんな時どうすればいいのか、私はよくわかりません。今はただただ、目の前の作業をこなしていくのみです。朝起きたら会社に行って仕事をして、帰ったらメシ食って寝る。それの繰り返し。しばらくこの生活を、耐えながらしていく必要があるんだと思います。

娘が私の元を巣立った今、私は次の生き甲斐を見つけるべきなのでしょう。娘への過剰な想いは、断ち切ろうと思います。娘には自由に幸せに生きて欲しい。私はその姿を、少し離れた視点で、のんびりと眺めることにします。


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